
録画しておいた『あらしのよるに』を流し見ながら仕事。
いろいろ先入観があって興味の埒外だったのだが、
監督が杉井ギサブローだと知って見る気になった。
『銀河鉄道の夜』の人である。
別役実の脚本をますむらひろしの猫キャラで動かしたあの劇場用アニメは、
派手な売りはひとつもないが美しく幻想的な佳品だった。
細野晴臣の音楽も忘れてはならん。
そう思って見ると『あらしのよるに』も、
やはり派手さや時流とはまったく縁のない作品である。
今更とも言える内容と絵柄。
にも関わらず、退屈することなく最後まで話を追えた。
ちゃんとハラハラドキドキし、そしておしまいに安心できた。
ものすごく正しい子供向けのアニメーションだと思った。
何のことはない、
本作品はいにしえのディズニー作品に連なるごく正統派の漫画映画なのである。
ここんとこやや迷走気味のジブリ作品よりよっぽど清く正しく美しい。
陳腐かつ大仰な表現をすればアニメ界の良心と言ってもいい。
それにしてもこのようなまじめな作品に対し、
話題作りとして人気"タレント"をキャスティングする風潮は何とかならないか。
役を振られた側は頑張ってるし、芝居も大体において悪くなかったけど。
とらやの羊羹に美少女フィギュアの食玩を付けて売るような、
まるで見当違いの付加価値だと思う。
舟崎克彦・舟崎靖子『トンカチと花将軍』読了。
以下若干ネタバレあり注意。
1971年に書かれたこの童話もまた、正しい現代のおとぎ話である。
書評家は日本におけるナンセンステールの先駆として位置づけたがるようだが、
それはなんかどうも納得がゆかん。
ナンセンステールとは『アリス』に代表されるように遊びの文学だ。
『トンカチと花将軍』に遊び心が横溢していることはまちがいない。
しかし本書を手にした子供が、
修辞的な遊びに囚われ惹き込まれるとは到底思えないのだ。
不思議の国に紛れ込んだアリスが出会う相手は大なり小なりストレンジである。
面白おかしくはあっても親しみの持てる関係ではない。
チェシャ猫にしろ気狂い帽子屋にしろ、
少女を遇するに当たって特別扱いもしないが歓迎もしていない。
アリス自身の態度もまた「わけのわからないもの」に対するそれだ。
彼女は自分の置かれた状況を楽しんでおらず、
結局のところ遊園地に置き去りにされた迷子の域を出ていない。
要は『不思議の国のアリス』は、
少女を悪夢の迷宮に放り込んで困らせてみましたというお話なのだ。
まあそのアレだ。『千と千尋の神隠し』と一緒の趣味ですよ。
それがいいか悪いかって話じゃなく、
つまりは大人が大人のために書いた物語なのである。
なればこそ言葉遊びやナンセンスが抽出されてくるわけで。
対して『トンカチと花将軍』の楽しさはもっと子供寄りのものだ。
愛犬を探しに森に迷い込んだ少年トンカチの目の前に次々に現れるのは、
変わってはいてもみんな気の良い愉快な仲間たちなのだ。
少年は不意の邂逅にとまどいを覚えることはあっても、
決して彼らを拒否することはない。
不思議の国の住人たちの側も同じだ。
トンカチは迷うことなくあねもね館の住人になり、
この見知らぬ世界をしっかり受け容れる。
そして世界もまたそんな少年をあたたかく迎え入れる。
お互いの関係は対等であり、
だからこそ最後には皆で力を合わせて目的を達成することができる。
困った奴やおばかさんはいるが悪い奴はひとりも出てこない。
少年は自分が迷い込んだワンダーランドをめいっぱい楽しんでいる。
これはアリスなんかよりもっと純粋に子供が楽しい、
おもちゃ箱のようなお話なのである。
そもそもこの物語世界をナンセンスと感じるのは大人の常識のなせる業だ。
子供にとってお話の中で空とぶ馬が着陸がヘタだったり、
水たまりが姓名判断をしたとてなんの不思議があろう。
ナンセンス=無意味などころか、
センス・オブ・ワンダーに満ちた物語ではないか。
読み手はトンカチと一緒にハラハラドキドキの冒険の旅を楽しみ、
おしまいに安心するだろう。
ほうら、正しい子供のための読み物だ。
おとぎ話は花をさがしに行くトンカチの日常から始まり、
ちゃんといつもの友達が待つ日常に戻ってその輪を閉じる。
少年はただ遊びに行って帰ってきただけなのだ。
あの楽しい隠れ里に二度と戻れないであろうことを知り、
寂しく思ってしまうのは大人の読み方である。
子供たちの明日にはきっとまた新しい冒険が待っているのだから。
現在は福音館文庫に収録されているので、
興味のある方はぜひ手にとってみて頂きたい。
心休まる一冊です。