
伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』読了。
電車の中で読み終わりそうなことに気づき、
降りるなり慌てて遠回りをして本屋に寄ると、
『ラッシュライフ』『重力ピエロ』を買って安心した。
この人の本と別れるのが惜しかったのである。
亡き畏友に怒られるので、自分が本読みであることは否定しない。
が、いわゆる読書家ではないと思う。
小説を読む習慣を失って久しい。
枕元にも鞄の中にも常に本はあるが、たいがい海外の短編ミステリだ。
しかも20世紀初頭に書かれたクラシックばかりである。
日本文学に至っては、好きな作家で一番最近の人が池波正太郎という体たらく。
私の文学史はいいとこ昭和で終わっているのだ。
別に拒否しているわけではないので、最近の小説も読まないではない。
ただ、あんまり後を引くものに巡り合えないのだ。
本は可能な限り読み返したい。
一度読んで「ああ面白かった」で終わるようでは、好きな本とは呼びたくない。
再読に耐えうるための自分なりのハードルには、たとえば語彙の豊潤さがある。
難しい単語熟語がいっぱい出てくるという意味ではなく、
言葉を自在に扱えているかどうかだ。
ぎこちない文章は必ず頭の端に引っかかり、
物語世界に没入するのをそこで止めてしまう。
これは書く側にしてもそうだ。
自分のものでない表現を使ってしまうと、そこだけ明らかに挿入句になる。
手書きの文をみれば辞書で調べた文字はひと目でわかるものだ。
大きさのバランスが崩れるから。
慣れないコトバを使うというのは、つまりはそういうことである。
だから書き手は自分の操れる範囲の日本語でしか綴らないし、綴れない。
そうすると最近の小説っていかにも文章が軽いのである。
重たい文章や難しい文章がいいというつもりはない。
実名出してしまうが森毅や奥本大三郎の書くものは、
既に人に読んでもらうという文章本来の目的を見失っていると思う。
好きなんだけどね森先生。
でも随筆は本当に何言ってるかわかんないんだよ。
硬い文章しか書けない人というのは、
結局文章がヘタなのだ、と喝破したのは畑正憲である。
ともすれば陥りがちな罠なので私も気をつけたい。
それにしてもあまりに軽い文章で記された物語では、
出てくる人物像がどうしても深みに欠ける。
私は二次元より生きている人間が好きだし、そういう話が読みたい人なので、
お約束の属性を与えられたぺらぺらの紙人形が動き回っているような小説は、
どうにも好きになれないのだった。
しかし『オーデュボンの祈り』が読み終わりそうになったとき、
私は悲しくなってしまったのだ。
もっと伊藤や日比野や優午と遊んでいたい。
叶わぬ願いであることは判っている。
相手は小説の登場人物だ。カカシも混じってるが。
いずれにせよ、結末を迎えてしまえばハイそれまでよである。
それでもなお別れたくないと思った。
せめてこの作家の他の本をキープしておきたい。
本屋に走らせたのは、だから言ってみれば未練だ。
ひとつの作品を読了する前にこんな気持ちになったのは初めてである。
物語は結末を迎えた。
なんて美しい小説だろうと思った。
そして手元にまだ読める彼の作品があることに、しごく満足した。
吉野仁は巻末の解説で、
『重力ピエロ』が出版社に持ち込まれたときの挿話を紹介している。
「担当編集者は一読し、『なんだ、小説まだまだいけるじゃん!』と快哉を叫んだという」
まだまだいける。
伊坂作品に対する非常に的確な読後感である。
2000年のデビュー作である『オーデュボンの祈り』で既に、
彼は自身のみならず、日本文学についての可能性を示唆してみせているのだ。
こんな作家が存在することに、
7年間も気づかなかったことを悔やむと同時に、
出会わせてくれたダ・ヴィンチという場所に感謝したい。
急な取材だったため事前に読了できなかったのが残念だが、
実際に会った作者の印象が読ませた一冊でもある。
それが正しい順序だったのだと、カカシは言うだろう。