植田正治展
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植田正治展に関するツイートを抜粋。
(一部修正)


植田正治写真展。ひとりの写真家の60年におよぶ変遷を一望する機会はそうそうあるものではなく、いろいろ考えさせられた。いわゆる「植田調」よりも家族を被写体にした作品群に改めて心惹かれる。埼玉県立近代美術館にて、23日まで。http://bit.ly/1OuMHX
posted at 03:23:00

興味深いのはその「土着的でない」作風が1950年代すでにエドワード・スタイケン(当時ニューヨーク近代美術館キュレーター)によって評価されている点。ニホンジンという色眼鏡なしに世界に認められたコスモポリタンは、生まれ育った鳥取の地をほぼ生涯離れることがなかった。
posted at 03:41:36

しかしそんな彼が還暦を迎えようという1972年に初めて訪れたヨーロッパで撮った作品群は、けっこう普通に観光写真なのだった。新しい被写体を得て撮影が楽しくて仕方がなかった様子がしのばれて微笑ましい。
posted at 03:50:07

ただし菊池武夫とのコラボレーションで再評価を得て以降は「何をやっても植田先生」という折紙付きでしか語られることはなかったように思う。生涯アマチュアリズムに固執した彼が、それで良かったのかどうかは分からない。
posted at 04:00:24


写真には絵画のように明確に作品に名前が記されていない。
たとえば一葉の写真を見て撮影者の名を言い当てることは、
相当の鑑識眼をもってしても難しい。

このため純粋に表現者としての「写真家」が大成することはまれだ。
写真史に名を残すカメラマンの多くは、
まだ母集合が大きくなかった時代に、
特定の技法かジャンルの草分けとなった人物ばかりである。
それだけで食べて行くことはほぼ不可能な上にコストもかかるため、
他に仕事をもっている(商業カメラマンを含む)か、
或いはディレッタントの道楽が嵩じた結果であることも少なくない。

植田正治もまた写真店「植田カメラ」経営の傍ら、
表現を追求し続けたひとりである。
その作風はモホリ=ナジに代表されるバウハウス構成主義に正しく則ったもので、
生涯揺らぐことがなかった。
第二次世界大戦というイベントを経て世界が現実主義に傾倒していった二十世紀後半、
彼のような手法が時代遅れと評されがちだったことは想像に難くない。
モデルや静物の配置、ライティングを考え丁寧に演出された画面は、
一瞬の現在を切り取るマグナム・フォトのそれとは対極に位置するものであった。

しかし時代の流れとは関係なく、
彼は砂丘にローライフレックスを持ち出しては撮りたいものを撮っていた。

転機が訪れたのは1983年。
アートディレクターをしていた次男充が、
愛妻紀枝夫人を喪って失意の正治に広告写真の話を持ちかけた。
上記のツイートにあるタケオ・キクチとのコラボである。
思えば彼の演出写真はコマーシャルフォトの手法そのものだ。
植田正治は再びカメラを手にし、
撮り慣れた鳥取砂丘を舞台にファッションの世界に向けて縦横無尽にタクトを振った。
時に70歳。

彼の生涯の仕事をひもといた時、
この「砂丘モード」と呼ばれる作品群は決して目新しいものではない。
正直、30~40代で完成していた手法の自身によるトレスに過ぎないと感じる。
だが市場に植田正治の名前を認知させるには十分だった。
そして現実に倦んだ時代もまた、
単なるドキュメンタリーでない写真を欲するようになっていた。
ロバート・メイプルソープが活躍したのはこの頃である。

かくて植田先生の評価は確定した。

私が植田正治の名を知った頃はすでに、
カメラ雑誌の広告でペンタックス645の漆塗りモデルを手に微笑んでいたり、
ノスタルジックな一葉をカラーページに寄せたりしている好々爺だった。
その佇まいからは「ご隠居」の雰囲気が、
ベス単で撮った彼自身の写真のように滲み出ていた。

けれどもセルフポートレートの中で絶妙なジャンプをみせる30代の植田正治を見たとき、
砂丘に並んだ家族の写真に寄せられた、
「カメラをのぞきながら、
だんだんと花を持つ手が下がってきた娘をおもわず叱ってしまったボク」
というコメントを読んだとき、
穏やかながらもエネルギッシュな硬骨漢の姿を想起することができる。

60年以上にわたって撮り続けられた膨大な作品群。
そのどの一枚をとっても高い品格を失っていない。
「いやなものを撮っても、それが真実だから」という安易なリアリズムを、
彼は終生拒み続けた。

骨のあるモダニストであったと思う。

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【2011/01/18 02:22】 | 未分類 | page top↑
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