ヴァーチュアル写真集
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例によってダ・ヴィンチの企画で、
リトルモア&BCCKSの写真集公募展に参加してみることに。
http://littlemore.bccks.jp/
詳しい経緯は来月売りの11月号で。
ひと月先だな。

写真集というのはかなり特殊なジャンルの出版物だ。
ごく少数の数寄者を除いて、
一般の消費者が写真集を買う、あるいは興味を持つ理由はただひとつ、
「何が写っているか」でしかない。
問題とされるのは5W1HのWHATとせいぜいHOWくらいであり、
たとえば文芸書における重要項目であるところの「誰が」は、
ほぼ黙殺されている。

日本の小説家を10人挙げてみろと言われて答えられない人はそうはいまい。
しかしこれが写真家になると、
外国人を含めてもなかなかとっさに10人は出てこないんじゃないだろうか。

ちなみに私は答えられますだ念のため。
別に自慢じゃなく、写真は撮るのも見るのも好きなんで。
ただ、それが常識の範疇だとは思ってません。

文学や絵画、音楽にはほぼ漏れなく作者の名前が付いて来ます。
けれど写真だけはあまりそれが問題にならない。

ひとつには個性が出にくい世界だってのがある。
絵画であればたとえ同じ題材を描いていても、
ピカソの作品かルーベンスのそれかは一目瞭然だ。
しかし一枚の写真のカメラマンが森山大道であるか植田正治であるか、
果たしてどれぐらいの人が判断がつくというのだろう。
例が悪いな。このふたりだと見分けられてしまう気もするぞ。
まあ個性的な写真家の代表格として。

だが、それよりも大きな理由は、
写真が過剰に伝達的なメディアであるという点だ。
表現手段としてのテンプレートの完成度が高いために、
誰がどう撮っても必ず何かしらの内容を伝えてしまう。
受け手は個々の技術やセンスの違いなどよりも、
はるかに伝達内容の方に重きを置いて見てしまうのだ。
焦点はいきおい「誰が」ではなく「何を」に集約される。

そもそも私たちは興味の対象にカメラを向け、
それがフィルムや印画紙、
もしくはモニタ上に再現されることに喜びを覚えるのではなかろうか。
そういうのが写真を撮るという行為の初期衝動であるように思う。
そして再現されたものを、
興味を同じくする撮影者と閲覧者が一緒に楽しめればOKだあね。

しかし現実のコピー作業に終始している限り、
表現者としての写真家にはなれない。
他人とは違う、自分なりの何かを表現できなければダメなわけだから。
仮にとびきり特殊な被写体やテーマを思いついたとしても、
もっとセンスのあるフォロワーが現れたらおしまいだ。

荒木経惟を評して、
いつどこでどんなカメラで何を撮ろうと、
必ずアラーキーの世界が現れると感嘆したのは田中長徳であったと思う。
そのような地平に辿り着くことは、凡百の徒にはなかなか難しい。

公募に寄せられた作品群を見ていて、改めてそのことを痛感した次第。
や、もちろん自分のも含めてですよ。

チョイスされるには何らかの突出したものがなければならない。
そこに被写体あるいはテーマがセンセーショナルであるという以外の選択理由が、
どの程度介在できるのだろうかと。
すきま漫画家の絵日記などと紹介された(したのは自分だけど)ポートフォリオに、
興味を持つ人が果たしてどれぐらいいるもんかと。

まあ、そんなややこしいこと考えなくても、
別にただ眺めてるだけで十分面白いんだけどね。
写真って。

私の出品作は以下のリンクから。
http://littlemore.bccks.jp/bcck/26956
こちらのお客様方には見覚えのある画像もありましょうが、
お暇な時にでも御笑覧頂ければ。
そして作ってる最中は結構楽しかったので、
我こそはと思わん方は一緒に参加してみるのもアリですぜ。
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【2009/09/06 02:24】 | 未分類 | page top↑
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