ダーウィンの憂鬱
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昆虫学者ファーブルがダーウィンと懇意であり、
それでいて終生変わらぬ進化論の批判者であったという事実は、
ごく一部で有名なおはなしである。

21世紀の今日では生物進化は世界の真実とされており、
反対者はエデンの園の実在を信ずる頑迷固陋な宗教家か、
世を惑わすトンデモ科学者のいずれかであるかのように扱われている。

しかし私たちは「進化論がなぜ正しいか」を考えてみたことがあるだろうか。

『種の起源』の成立は1859年、わずかに150年前の話に過ぎない。
日本では吉田松陰が伝馬町で斬首された頃だ。
そう思うとけっこう昔だな。

いずれにせよ、それまであらゆる生きとし生けるものの出自は、
「最初からこうだった」のである。
このような考え方を種の不変性と呼ぶ。
ごく冷静に考えてみれば、
キリンの首はもともと長かったと思う方が、
何万年だか前には短かったんじゃないかと疑るよりも自然だ。

にも関わらず進化論が支持されるに至ったのは、
他の色々なことを説明するのに都合のよい学説だったからである。

わかりやすい例としては、たとえば始祖鳥の化石だ。
1860年に見つかったこの大むかしの生きものは、
羽やら羽毛やら鳥類のあらゆる特徴を備えていながら、
なおかつ鋭い歯やら前足のかぎ爪やら、むやみと爬虫類的でもあった。
言ってみればバケモノである。

このような何だか得体のしれない呪わしい生物の存在を、
進化論は爬虫類から鳥類への過渡期にあるものだと明快に答えてくれる。
なるほどなるほど。

われわれ一般人は進化というものを、
だいたいそんな感じで漠然と理解し納得している。

でも当然ながら実際に爬虫類が始祖鳥に変わり、
現生鳥類になっていった様を目撃した人はいない。
あるとすれば火の鳥ぐらいだな。

進化論の本質は推論なのだ。
相対性理論と同じで、
それが発見されたことによってさまざまな現象の説明が可能になった、
非常にすぐれて便利な原理なのですよ。

このいわば実証を伴わない思弁性ゆえに、初期の進化論は容易に排撃された。
んなもな机上の空論だと片付けるのは簡単だからさ。
ダーウィン以前、
用不用説として知られるラマルクの進化論は、
18世紀の大博物学者キュヴィエによって激しく否定されている。

ちょっと面白いのは、キュヴィエにせよファーブルにせよ、
進化論の批判者の何人かは徹底したフィールドワーカーだった点である。
「すべてのいきものは神様がおつくりになられた」的宗教上の信条ではなく、
逆に現実味に欠けるという理由で種は不変なりと主張したのだ。

彼らはおそらく現場主義者の陥りがちな罠に嵌ったのではなかろうか。
すなわち「自分の目で見たものしか信じない」。
一見間違ってないように思える姿勢だが、
実際には個人が確認できるサンプル数などたかが知れている。
事象を正しく把握するには、
不足分を補う想像力ともっとマクロな視点が必要なのだ。

新しい定説を発見する天才は、だから得てして空想家である。
ダーウィン然り、アインシュタイン、フロイト然り。
そして空想的であるがゆえに、何だかちょっとだけ心もとない。

実は先に述べた始祖鳥をめぐる問題にしても、
われえわれ素人が勝手に納得しようと、
学者たちの間では未だに論争の的になってて決着ついてないねん。
そもそも進化の具体的な過程にしてからが、
突然変異だの性選択だの諸説入り乱れたままで。
どれかが一時的に主流になっても土壇場でまたひっくり返されたりして、
もうタイヘンだったりするのだ。

算数の1たす1は2みたいな自明の理じゃない。
いつぞやのオツベルと象の話みたいなもんで、
今学校でこう習ったからって、
100年後にもそれが正しいかどうかは保証の限りじゃない。

その辺を踏まえた上で、
進化論を信じる理由を自分なりに探してみるのも一興だと思う、
今日のわたくしなのです。

「先生が人間の祖先がサルだって言ったから」じゃなくてさ。
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【2009/06/08 05:21】 | 未分類 | page top↑
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