辻地蔵は見ていた
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写真は豊島区高田にある山吹の里の石碑である。

能書によれば
「太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、
山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます」。

なんのことやら意味不明なのは往時の道灌も同様であった。
ずぶ濡れで路頭に迷ってる状態でこのような仕打ちを受け、むかついたまであると思う。
木の枝とか渡して何のつもりだ。殺すぞ。
しかしこれは、後拾遺集にある次の古歌に由来する雅なわざであった。

「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき」

実の成らないヤマブキと蓑の無い我が身を掛けた次第。
なお、よく見かける一重のヤマブキは普通にぷっくりした実をつける。
結実しないのはこの歌にもあるようにヤエヤマブキだ。
八重の花弁は雄しべが変化したものなので実生のしようがないのだとか。
要するに農家の娘は山吹を手渡すことにより
「蓑ひとつだにない」ことを伝えていたわけで、
まわりくどいメタファーだが、いかにも日本的ではある。

のちに人からこのことを教えられた道灌は、
娘の奥床しさに感心すると共におのれの無学を恥じ、
勉強に励むようになったという。
最終的に説教くさい結論に落ち着くのがなんだか月並で残念だ。

石碑はこの和漢三才図会などに見られる伝承の舞台を名乗っているわけだが、
実のところ特定はされていない。
荒川区町屋や横浜市金沢区、
埼玉県越生市などもそれぞれに主張していると聞く。

私とて別に豊島区の肩を持つつもりはない。
面白いと思ったのは内容よりこの石碑自体である。
よくみると「山吹の里」の下地に何やらごちょごちょ細かい字が彫り込まれている。

案内板によれば、これがびっくり供養塔を転用したものなのだ。
そういえば上の方に梵字も見える。
供養というからにはなにがしかの祖霊が祀られていた筈だが、
手頃な石がなかったのかそのまま流用してしまったらしい。
チラシの裏的手法としてもえらく乱暴な話である。ばちあたりメガ。

供養塔の建立は貞享三年、西暦で1686年。
徳川幕府五代将軍綱吉が生類憐みの令を発する一年前の出来事だ。
そしてさらに翌1688年には元号が元禄に改元され、
この石碑は江戸時代最大のバブル期を目の当たりにすることになる。

次の写真はとある住宅街の四つ辻に立つお地蔵様。
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側面に刻まれた年代は明和六年。
さきの供養塔から83年を経て日本は十代将軍家治の治世だ。
1769年はジェームズ・ワットが蒸気機関を発明した年である。
アメリカ合衆国独立の実に7年前。
3年後の1772年に江戸の町は明和の大火に襲われる。

おそらくはその以前からここはずっと四つ辻であり、
お地蔵さんは240年ものあいだ、
道ゆくひとびとの移り変わりをずっと見守って来たのだ。

「そのような風景はよく考えて見ると、この世をすこしでも住みやすくしよう、と努力してつくられたものなのです。自然にくわえた工事というものは、われわれの生活を不利にするためのものは一つもないのです。そこには、おのずから人々のあたたかい心があらわれているのです。
 ここには、そのような私たちの心をあたためてくれるものを見てゆきたいと思います。
 しかもそうしたものは、有名な人のした事業はいたってすくないのです。多くは、私たちのように、平凡な人々のしごとだったのです。」
(宮本常一『日本の村』)


だから私も太田道灌の雅やかな逸話より、
誰のものともわからない供養塔や辻地蔵に心惹かれる。
江戸城築いたりする器じゃないからな。
自分のできることをちみちみとやってゆきますさ。

まずは目の前の仕事やな。
どっせーい。
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【2009/05/11 19:36】 | 未分類 | page top↑
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