練馬風土記
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古本屋で300円で買った『練馬区の歴史』がすこぶる面白い。
なんで練馬かというとそれしか置いてなかったからで、
そもそも買った店は板橋区だ。

本書によれば練馬は、
一部で有名な太田道灌による石神井城の落城の後、
昭和の御世に至るまでの長きに亘り農作の地であったそうな。
練馬大根は寛政年間にはすでに名産品として知られていたが、
昭和のはじめに伝染病で一度全滅してしまったらしい。
因みにこの特産物ゆえに、
役者俳優は練馬に住むのを嫌ったものだとか。
ダイコンだからね。

農村であった練馬と江戸市中との繋がりは、
野菜類を届ける代わりに八百八町民の下肥を持って帰ることだった。

むかし、現在の目白通りにほぼ重なって清戸道と呼ばれる道が走っていた。
練馬のお百姓さんたちが大八車にいっぱいの大根や沢庵を積んでは江戸に上り、
帰りは町家から汲み取った下肥を積んで下るルートである。
このために「おわい街道」の一名があったという。
なんてこった。

目白通りの東側の起点となる椿山荘前には、
現在も清戸道の旧道が残っているとある。
もっとも30年前の本だから1970年代の現在だが。
一方清戸道の西端は目白通りから現在の千川通りに繋がっており、
なるほど練馬から江戸川橋まで一本道が通じているわけだ。

そんな練馬に鉄道が走ったのは大正四年。
池袋から練馬・石神井を経て埼玉に入り飯能に至る、今の西武池袋線である。
当時は武蔵野鉄道といった。

しかし開通したはいいが上に述べたような土地柄である。
二時間に一本の汽車に乗る人間の客はおらず、
結局これまた下肥がその主な積荷となった。
つくづく中央と肥料で結ばれた地域だったのである。

とはいえ自分は乗らなくとも、
鉄道開通は土地の人々にとってはやはり誇りだ。
石神井地区の住民たちはこれを祝い、
鉄道会社とは何の関係もなく有志で勝手に記念碑を建てた。
大正九年のことである。
「石神井火車站之碑」と大書された高さ4メートルに及ぶ石板は、
石神井公園駅の南口駐輪場横に今も屹立している。

一方で煮え湯を飲まされたのが隣の大泉の地主の皆さんで、
「大泉にも駅が出来ますよ」という触れ込みを真に受けて鉄道会社の株を買ったのに、
いざ線路が敷かれてみると駅がない。
頭に来た株主たちが猛烈に運動を行って、
やっと駅が出来たという経緯だったのだとか。
どうせ自分たちは乗らないんだろうけどね。
今も昔も「おらが村に駅を作る」は地元の名士様のプレステージなのだ。

ざっとまあこんなような感じで、
下手に武家支配とかが絡んでない分、
非常に生活感のある歴史が展開していてたいへん興味深い。
区内に庚申塚が多い話とかね。多分に民俗学的なのだ。
思わず同シリーズの他の区域の本も読んでみたくなりましたぜ。

巻末を見ると全23冊刊行中とあるが、
昭和52年6月の段階で3冊しか既刊になっていない。
品川区や大田区に至っては「執筆者交渉中」とある。
果たして23区全部出揃ったのかどうか甚だ疑問だ。

版元の名著出版は今んとこ健在ではある。
http://www.meicho.co.jp/
商品検索してみたけど、
『東京ふる里文庫』は半分くらいしかヒットしなかった。
とっくに在庫が払底してるのか結局全巻出てないのか。
うーぬ。

そういやこういう催しの末席を汚してます。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070509ddm010040183000c.html
ほんとに末席なんですが。
小野梓記念館にて5/27まで。
【2007/05/15 19:37】 | 未分類 | page top↑
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