
佐藤さとる『コロボックル物語』全5巻読了。
以下ややネタバレも含むので、
これから読もうという人はご留意くだされ。
子供の頃に読んだのは2作目止まりで、
3作目以降を紐解くのは実は初めてである。
もっとも完結作『小さな国のつづきの話』が世に出たのは1983年だ。
とうに児童文学を読む歳ではなくなっていた。
逆を辿れば1作目『だれも知らない小さな国』は1959年の作品である。
佐藤さとるは四半世紀を費やしてこの物語の幕を引いたことになる。
本作には「幕を引いた」という表現が似つかわしい。
現在、世間には連作の長編ファンタジーが氾濫している。
指輪物語やナルニア国、ゲド戦記にハリポタといったベストセラーはさておき、
中には何匹目だかのドジョウを狙った噴飯ものも少なくない雰囲気だ。
全5作で完結するファンタジー小説という意味では、
コロボックルものも同じカテゴリに属するのかもしれない。
しかし通読したときに感じる印象は明らかに連作のそれではない。
同じ世界を描いていながら、である。
首を捻った挙句にやっと思い当たった。
シリーズ化された映画を続けて観たときの感じだ、これは。
各作品の発表年度を見てみよう。
1.だれも知らない小さな国(1959)
2.豆つぶほどの小さな犬(1960)
3.星からおちた小さな人(1965)
4.ふしぎな目をした男の子(1971)
5.小さな国のつづきの話(1983)
『だれも知らない小さな国』はシリーズものの一作目として書かれた本ではない。
従って本作だけが完全に独立完結した物語になっている。
自費出版本が編集者の目に止まって講談社から上梓されたという経緯はダテではなく、
児童文学としての完成度は非常に高い。
毎日出版文化賞とアンデルセン国内賞を受賞している。
そして年を経ずして書かれた2作目『豆つぶほどの小さな犬』は、
読者の熱望に応えて綴った「コロボックルたちのその後のおはなし」である。
いわばファンディスク的な意味あいを持った作品だ。
とはいえあとがきで作者自身が述べているように、
内容は彼が小さい頃から暖めていたものだけに破綻はない。
十二分に面白く読める創作童話である。
クルミのおチビ可愛いし。
ただ、一作目では人間である「せいたかさん」に置かれていた視点は、
コロボックルのクリノヒコにバトンタッチされている。
言ってみればスタンスを完全に架空の世界に移してしまった訳で、
それゆえ前作とはまったく風合いの違う作品になった。
この時点ですでに連作ではなくなってしまっているのだ。
子供の私は面白く読んだのだが、同時に「ああ、うそっこの話なんだな」と感じ、
続きに手を出すのを止めてしまったのだった。
色気づいて来たガキンチョというのはリアリティを過剰に重んじるものだ。
そして読まなかった3作目以降は、
2作目と同じようなコロボックル世界のファンタジーなお話だろうとずっと思っていた。
だが30年近い月日を経て手にした『星からおちた小さな人』は、
意表を突いて三人称で綴られていた。
つまり今度は語り手自身に視点が移動しているのだ。
『だれも知らない小さな国』から5年、
佐藤さとるはこの作品でコロボックル物語を擱筆するつもりだったという。
お話として語り終えたい、そんな気持ちが書かせた三人称の物語ではなかったか。
本作で作者は普通の人間の少年を登場させ、
コロボックルとの接触を描くことで舞台をふたたび現実世界に引き戻し、
物語の環を閉じようと試みている。
が、閉じ切れなかったのはさらに作品が続いてしまったことで明らかだ。
4作目『ふしぎな目をした男の子』は、だから余談である。
もちろん物語としての体裁は整っているし面白いのだが、
コロボックルの歴史における一挿話の域を出ていない。
三人称で語られてはいるものの、
位置づけとしては2作目に戻ったようなものである。
もちろん他の多くのシリーズものがそうであるように、
『豆つぶほどの小さな犬』
『ふしぎな目をした男の子』のようなエピソードを綴っていったなら、
コロボックル物語はいくらでも続けることが出来ただろう。
事実、そうした挿話は他にも短編の形でいくつか発表されている。
しかし佐藤さとるは結局続けなかった。
4作目から12年の沈黙を経て、
自ら『小さな国のつづきの話』と銘打った物語を書き下ろし、
終止符を打ったのである。
最初の一章がまるまる人間界の話であり、
作中で作者自身の存在について言及され、
コロボックル物語シリーズが図書館の棚に並んでしまっているこの作品は、
強引と思えるまでの現実世界へのリンクを試みている。
ひとつには物語が書かれたのが、
空想やファンタジーに対して冷淡な時代だったというせいもあろう。
70年安保以降の日本文化の要はくそリアリズムだった。
高度成長期に豊かな現在と輝かしい未来を夢想した人々は、
80年代に入って現実の壁にまともに対峙することになる。
だが、時流のせいばかりではあるまい。
サーガを語り続けることを拒んだ佐藤さとるは、
あくまで物語を現実の手に返すことでケリを付けたかったのだと思う。
3作目のときと同じように。
ケリは付いた。
私にはこの12年後の完結編がコロボックル物語の墓碑銘のように思える。
決して悪口ではない。
自分で語り始めた話のお墓をきちんと建てられる書き手はきわめて少ない。
連作を投げっ放しにしてしまう小説家の何と多いことか。
私自身も語り部の端くれとして、
引っ張りすぎた話がいかに収束させ辛いかは承知しているつもりだ。
佐藤さとるは読者と自らの作品世界に対して、
あまりに真摯に向き合っていたのである。
1973年に文庫化された1作目『だれも知らない小さな国』の解説で、
神宮輝夫は述べている。
「この物語が続編を書くべきだったかどうかは多分に疑わしい。」
完結編の発表を待たずして書かれたこの一文は、
明らかに神宮のフライングだと私は思う。
解説で続編の存在意義を問われてしまった佐藤さとるが、
苦吟したであろうことは想像に難くない。
そんなことは言われるまでもなく作者自身が一番承知しているのだ。
ただし神宮はさらにこう続けている。
「ただ、佐藤は『このつぎ、どうなるの?』と読者にせがまれて書き続けざるをえなくなった幸運なひとりになったことは確かである。」
このふたつの文章が、
佐藤さとるとコロボックル物語の24年間を端的に表現していることは間違いない。
だからこれは単なるシリーズもののファンタジー小説ではなく、
ひとりの作家の四半世紀にわたる自分の作品との対決の記録なのである。
その重みは結局凡百の絵空事の積み重ねを遥かに凌いでしまった。
そしてそこには、
ユートピアを描き切ったリアリストという、
たぐいまれな文学者の姿が確かに刻まれているのだ。